F-1第1期時代から変わらない光景
ピットストップに入ったクルマにはいつも若きエンジニア、メカニックたちが寄り添う
その頃のウイリアムズは フェラーリ、アルファロメオ、リジェ、ブラバム、マクラーレン、ロータスそしてウイリアムズって感じで
タイトルを取ったシーズンもあるが レーシング・チームによく有りがちな慢性的な資金不足に陥っていた。
そこにHONDAはエンジンの無償提供+αで契約にこぎつけた。ウイリアムズはレースにこそ出てるけど実績の無いエンジンを使うことは大きな賭けだったに違いない
1984年シーズン ついに! アメリカGP ケケ・ロズベルグのドライブで 記念すべき優勝を飾る
しかしシーズン16戦中 この1勝で終わってしまう チーム・オーナーのフランク・ウィリアムズには失意のシーズン だったろうし 当然 HONDAにはチームからの要求が強まる。
暗中模索の中 エンジンのモデファイのスピードを 速めるため ウイリアムズからクルマを1台買い取り 国内でテストを繰り返す。
ドライバーには スピリットでの奮闘にも かかわらずシートを失ってしまった ステファン・ヨハンソン そして 中嶋悟さん 日産系のドライバーの星野一義さんらが起用された
補足 : レーシング・エンジンと言えば ショート・ストローク型 ( ピストンの行程がピストンの経より短いタイプ 高回転で高出力を出しやすい ) が1つのお約束ではあったけど ターボ・エンジンの燃焼の不安定さに悩ませ続けられる
そこで 乗用車用のCVCC・エンジンからヒントを得て 思い切ってロング・ストローク仕様のエンジンを開発する ( と言ったってバカ長い訳でもなくって今までのタイプに比べてってことで 燃焼室の面積が相対的に小さくなったことで スパークプラグの火が全体に行き渡るようになった ) これにより燃焼効率が高まり 並行して行われてた 燃料システムのアップデート テレメーターシステムの導入等で 徐々に他メーカーエンジンに追いつき そして 越えて行くことになる・・・・が
F-1第1期時代から続いた HONDAレーシング・エンジンのアイデンティティの1つ “ ビック・ボアの時代 ”に自ら幕を引いた。
スレッド・タイトルのHONDAの憂鬱?までは届かなかったな・・・・
気持ちとしては HONDAに見放された形になってしまった ラルトやスピリットのその後とかにも触れてみたかったんだけど もう 書き疲れちゃったんで また いつか 何かの機会にでも F-1に戻るまで まだまだ日にちもあるしねw!
最後に 愛読書だった 故 海老沢泰久氏 著 [ F-1地上の夢 ] から
1984年 イタリアGPにて F-1チーム監督に就任したばかりで エンジン開発責任者 桜井淑敏氏と当時テスト・エンジニアとして現地に詰めていて 桜井さんの後 監督に就くことになる 後藤治氏の印象的な会話を原文のまま
桜井淑敏は後藤治のそばに行き、肩をポンと叩いて鷹揚にいった。
「 どうだ、いいエンジンきただろう 」
「 ああ、あのエンジンですか、あれならもう金曜日に全部壊れましたよ 」
と後藤治はいった。
「 ちょっと待てよ。おれには冗談はいうなよ 」
と桜井淑敏はいった。
「 冗談じゃありませんよ。金曜日の予選で2,3周走っただけで4台とも全部壊れましたよ。あれは全然だめですね 」
「 本当に?1日で、それもたった2,3周走っただけで壊れちゃったの? 」
「 そうですよ 」
桜井淑敏は愕然とした。自分が長年かけて培ってきた技術者としての自信とプライドがはげしく傷つくのを感じた。
「 くそ、F-1てのは何という世界だ 」
と彼は思った。こんな屈辱を味わうのははじめてだった。
何となく NHK プロジェクトXのテーマソング 中島みゆきさんの歌が聴こえて来そうでもある・・・・w
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